爆竹の電子音で邪気を祓う

2010年2月13(土)
 
大晦日である。旧暦の。iPhoneに入れてある爆竹の音の出るソフトを起動して邪気を祓う。そう言えば今年は春節と情人節が同じ日である。
広告
カテゴリー: 未分類 | 1件のコメント

ロワール渓谷の木靴職人に再会

2010年2月10日(水)
 
ジャック・ドゥミ監督のドキュメンタリー映画『ロワール渓谷の木靴職人(Le sabotier du Val de Loire)』(1955)をケーブルテレビで観る。劇場勤務時代に上映したことがあり、観るのは2度目。映画誕生100周年の記念企画でフランス側が用意したドキュメンタリー映画のパッケージ「リュミエールの世紀」が世界を巡回したのだが、日本ではうちとアテネフランセと草月ホールが予算を出し合い、共同で受け入れたのだった。1989年冬のことである。『ロワール渓谷の木靴職人』はその中の1本。つまり20年ぶりに観たことになる。

 

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

機械は電気羊の夢を見る

2010年1月24(日)
 
 『夢見る機械』より 新宿の西口の光景。後ろは小田急ハルク。
カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

千のナイフ

2009年11月23日(月)
 
  久有凌雲志重上井岡山
  千里来尋故里  
  菖貌変新顔
  到處鶯歌燕舞            
  更有澱澱流水
  高路入雲端
  過了黄洋界
  険處不須看

  風雷動 族旗飛 是人寧
  三十八年遂去 弾指一瞬間
  可上九天撹月 可下五際捉鼈
  談笑凱歌遂
  世上無難事 只要肯登欅
カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

Cape Skoton にて

2009年9月12日(土)
 
 
 
カテゴリー: 未分類 | 1件のコメント

兪賢穆「映像芸術の望ましい未来像」3 

 これを実験派集団の中でも劇映画志向の若者たちの代表格であるジョナス・メカス(前衛芸術新聞『The Voice』主幹)は、熱を帯びた語調で次のような「宣言」をした。

 「……芸術と人生の嘘八百には、これにはもう嫌気がさす。他のさまざまな国の若い同志たちのように、新しい映画を創造するのみならず、我々の新しい人間を志向する場である。芸術作品と比較するほど、我々は新しい人生の創造に全身を投入する。きらめいて美しく整えられているが、作用内容が嘘八百である「インチキ映画」は是非もうやめてくれ。例えば荒くて低い完成度の表現表現でもいいが、赤裸々に生きている映画の方がより切実なのである。観客はバラ色の夢を抱かれる映画ではなくてもいい。我々が渇望するものは血の色をした映画なのである」
    
 
 この宣言ではその他に検閲問題と規制財力の鉄壁のような配給システムを鋭く糾弾しているが、これは体制的な論理や体質に反感を持つ若い世代に圧倒的に支持を受けると同時に、このような反商業主義的映画に対する関心が全米に波及し進んでいる。
 この傾向は強い「アンチ・ハリウッド」の感情を入れて、いわゆる「ニューヨーク派」と呼ばれる「独立映画作家」の集団であるニュー・アメリカン・グループを発足させるようになる。これらは映画に対する検閲を拒否し、映画における個人的な表現の重視を讃揚する声明を発表しながら、映画のために財政と配給を相互協同しようという決意を持った。
 これは次々と「オフ・ハリウッド」という総称で全米に拡散しながら、巨額の製作費と施設を拒否している。小規模の私的な独立プロダクションで携帯用機材で少人数編成、スタジオ排斥のリアルなロケーション撮影、そして高い商品俳優の拒否などで、低予算の製作が可能になる。ここで企業体制の惰性と束縛から逸脱する自由な主題意識と方法で、集団組織の創作ではなく、すなわち文学・音楽・画家と同様に「個人創作」の時代を、そして脱大衆化時代を迎え入れようとしているのである。
 このような企業採算的目的ではなく、「個人映画」は観客との接近の場である劇場企業に迎合することはできない。大劇場の概念は高い興行価値と結合されるためその工業製は大衆と通俗性を全体として妥協する。個性的主張と発言が強い個人映画が大型観覧場を拒否しながら、作品と交感される特殊階層たちを要求している。小劇場制に転換すればいいのかという提起もありうるが、その建築主たちは、むしろスーパーマーケットが有利になるはずで、たとえ成ったとしても製作側は不当に搾取されるものと決まっている。
 そうであれば「個人創作時代」の不可避な大勢は、どこで観客と出会わなければならないのか。これは現代のエレクトロニック・テクノロジーが抱かれたVTRシステムの加速度的な普及率に希望をかけるしかないと思う。廉価指向の普及率とともに近い未来が解決し、  TVの知識階層別・嗜好別・専攻別のシステムが反映され、さらに自由な選択のVTRテープカセットは低廉、精鋭繊細化されるのである。したがって、万年筆とノート帳、そして本のように生活必需品化することは間違いない。
 
 Ⅲ章
 
 「個人映画」傾向を見ている世界映画界の動向は、今日「反ハリウッド」の波とともに台頭を始めている。
上述したように一世紀も経たない間、映画的表現様式は、急激ながらも多様な姿をしている。   傾向であれば未来のものをさらに不可知のものとなることであり、ここに参与する映画作家の数も膨脹一路にあることを、今日の現実からも知ることができる。
 多様な表現機能の映画、多数の声を高めようとする個人的欲望、これらの未来はどんな状況で現れるのか。ハイ・テクノロジーの発展形態とともに次のように予測してみる。
 文明批評家、アルビン・トフラーが予想した「第三の波」は、産業、文化構造の多様化と脱画一化、多品種少数生産を思考すると述べた。
 比喩するに、映画芸術の歴史過程も農耕革命を成した「第一の波」のように映画媒体と美学の育種時代を経て、産業革命を経て、産業革命を駆けてきた「第二の波」のように、巨大なハリウッドの規格的、大衆用大量生産と大量の同時空間的消費、配給網の独占権勢化は、すなわちアルビン.トフラーの主張のように規格化・同時化・中央執権化を意味する。
 これから今や開幕した「第三の波」時代は、作家の「多様化」した個人的発言の主題意識と多様な美学の自由な選択にあり、作品内容の画一的マンネリズムと多階層的大衆の平均値としての画一性から離脱する「脱画一化」の現象として表れようとしている。そのため、必然的な結果として小品主義に集中されながら、選別階層のため、販売量の制限と作品種類の多様性を意味する「多品種、少量生産」の傾向につながるのである。
 このような現実性のある未来像のためには、既存の映画産業の構造を変更しなければならず、そのためには新しい配給流通の経済学を成立しなければならない。一方電子産業と関連した映像媒体を芸術容器化する研究啓発と、作家財政の保護による無断複製の技術的制限などが、技術的側面と、そして映画芸術のアカデミズムによるさらなる映像美学の飛躍的革新のための映画人養成の教育形態、映画産業の沈滞化の悲観論から抜け出して、映像の新しい時代のための新しい変革を指導しなければならず、このための時策の開眼も要求されなければならない。
 反芸術化する今日の劇場映画文化の退廃状況と画一的大衆文化の弊害を一日も早く具体化し、生命を養育する時代と環境であることを期待する。
 そしてこれからの劇場文化の存在様式は超大型スクリーン、マルチ・スクリーン、立体スクリーンなどに適応するスペクタクルな劇映画のスタイルと環境芸術的様相ではないかと推測される。(了)
カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

兪賢穆「映像芸術の望ましい未来像」2 

 大量生産とハリウッド的な画一主義、そしてさまざまな様相を押し込んだスタイルのマンネリズムは、いよいよ第二次大戦前後から出発したイタリアの〈ネオリアリズム〉を誕生させた。
 この運動は戦争体験とその抵抗を契機として歴史を主体化するという意図で開花したものだが、その方法の特質は何よりもカメラと現実が接触して始まった。30年代の映画が計算されたドラマの枠を前提に、ドラマを単に視覚化するという手段であるだけの〈カメラ〉の消極的機能に対し、〈ネオリアリズム〉は映画のもっとも素朴で基本的な〈映像〉のリアリティから出発する。この時にカメラはまず現実的状況の内部に位置し、カメラを持つ作家の主体的体験がそのカメラを通じて把握される。
 一つの状況に対するカメラの位置の選択、すなわちこれは作家の目として現実に対する政治的・思想的立場なのである。映画はカメラが直視する状況と作家の闘争から表出される。この時に30年代映画の演出手法、すなわちドラマを正確に伝達するためにすべての場所で分かりやすい対象を捕捉し対象を解体し、作家の意図によって再構成される演出手法を拒否するのである。
 そうして一つの対象を別の対象との関係で表示して現実の多様な形象を採取し、そこに現れる現実の構造を立体的に表出する演出がネオリアリズムの基本的な様式なのである。
 我が国で6・25動乱直後に上映された『??』、『自転車泥棒』、『ヨーロッパのどこか』、『靴みがき』を回想してみるなら、ここに表れた特異な演出技術は観客の徹底した凝視を眺める〈長いカット〉、ある画面の中の多様な被写体の中の様々な対象との関係からくる葛藤的要素を表出しようとする〈深い空間〉、既存モンタージュ(編集)の人工的操作術を忌避しようとする傾向、特長ある英雄的人物を中心にしていない〈中心なき構図〉を見ることができる。この技法は当時新鮮な感動で全世界を支配したが、徐々に高度化し乱雑な水準で指向したが、大衆的基準を破壊し興行の基準を破壊する興行的採算から抜け出し、やがて5~6年の思潮で短命だった。
 1950年以後、映画に一貫して流れたのはTVに対する危機感で、その危機意識は〈映画とは何か〉という終わりなき自問を通じて創作の根本を強く支配して進んでいく傾向にあった。すなわち映画の存在理論、映画で何ができるのか、そして映画の表現構造の懐疑論が提起された。少なくとも30年代、40年代までの映画にはそのような意識はなかった。50年間もかけて構築したコミュニケーションのシステムを指して、これが〈映画〉であると信奉したし、したがってその信頼の中で映画という特殊地帯に安住してきたのである。
 そうして50年代に入り、TVが〈映画〉の既成概念を破壊した結果、映画を創作する行為は映画を再び初めから探究する地帯となった。その結果、映画的表現と映画のジャンルは極度に細分化され、多様化する傾向をもって拡散し始めた。一つの整頓された画一主義の制作方法は変化を起こす一方、作家の個性と思想が作品の性向を強く左右する状況で今日にいたっている。いわゆる自分だけの映像的思考で作品を制作しているためである。
 このような例証の出発から、1950年代末から60年中期まで育成した、フランスの〈ヌーベルヴァーグ(新しい波)〉の若い映画人たちによる作品時代をあげることができる。この傾向は、作家による多種多様であるが彼らの特質は規制の演出手法の否定、映像による映画の探究、作家個性の主張、意識の映像化を重点的に創出する方法である。フランソワ・トリュフォーの即興的カメラワーク、映像を思考の媒体とする演出、アラン・レネの過去と現在を組立て意識の同時的流れを表出する映像構成は、映画による新しい世界を開拓するのである。これらは新しい演出技術という広義の共通点があるだけで、これら相互間の類似品や主義は存在しないため、流派を形成しない。むしろ反流派性を長点としている。もう一つの特長は少額の製作費と製作スタッフ人員数の極小化である。
 続いて60年代後半には〈シネマ・ベリテ(映画的真実)〉運動が台頭し、これらはカメラの眼(レンズ)が持つ絶対的な客観性を信頼し、もしこのレンズで生き生きとした現実を捉えるならば、そこに〈真実〉を発見することができるという、一種のドキュメンタリー映画精神の発展された形態である。精鋭化され軽量化された16ミリカメラを駆使する叙述形式だが、これは現実状況を捉えるTVのリアリズムに強く影響を受ける所産と言うことができる。
 ヌーベルヴァーグの旗手であり、映像派理論家であるアレクサンドル・アストリュックは「カメラ万年筆論」を主張し次のように述べた。
 
「私は映画のこの新しい時代をカメラ万年筆時代と呼びたい。その映像は非常に正確な意味を持っており、それは映画が少しずつその視覚、映像至上主義、直接的な挿話、具体的なものなどの圧制から解放され、字(万年筆)で書く言語と同じことで、流暢で繊細な文字の一つの形式になることを意味している。どのような分野も映画では立入禁止をする方法がない。徹底してすべての皮をはがした瞑想、人間の生産に対する一つの見地、心理学、形而上学、各種の思想、さまざまの情熱などは、非常に正確にその領域に入ることができる。さらによく言えば、我々は世界に対してのそのような思想とそのようなビジョン  は、今日映画だけが説明することができるようになったことを意味する。今日デカルトのような人がいたなら、16ミリカメラとフィルムを持って彼の〈方法論序説〉を書くであろう」
 
 この言葉は文字媒体に優越する映像媒体の機能性を讃揚、そして誇張されたように、ひとつの現代と未来社会の複雑多岐な状況の中で符号的性格を帯びた文字媒体の限界性を指摘してもいる。そして映像言語による映像的思考時代を予告してもいる。
 一方、ところが大衆を至ることはやはりハリウッド流の娯楽産業としての大量生産物の映画だが、ここで抗拒して反商業的な実験精神の若者たちが第二の前衛映画時代を開いている。
 第一次大戦直後の〈前衛映画〉運動がヨーロッパを中心に起きたことに比べ、第二次大戦以後はアメリカを中心に起き、今日世界全域に破竹の勢いで拡散している〈実験映画〉運動は質量面で比較できないほど膨大なものである。今日の運動と20年代前衛映画とは三つの点で異なるところがある。一つに、今日のものは過去のような方法上の共通分母を持つイズム、すなわち絶対映画、純粋映画などのような潮流はない。ここでは想像を絶する多様な傾向で  かなり  一人一波の〈個人映画〉と見ることができる。二つ目としては、小型映画である16ミリ機材が低廉化され、また高感度フィルムに精鋭化され急速に大衆化されたという点であり、したがって簡便かつ低廉な製作費で可能なために、作家の数は圧倒的に増加した。三つ目はトーキー化による過重なな負担と、政治危機制圧から、表現の自由を得た点である。
 これら個人主義的で、個人製作または〈個人映画〉、〈私的映画〉といえる各種の作品の中からいくつか紹介してみよう。アメリカの実験映画は出発点から過去のシュルレアレスムとアブストラクト・アートから継承したが、マヤ・デレンの『午後の網目』は悪夢なのか妄想なのか混沌とした映画で、鏡、少女、ナイフのようなものの象徴的形象を反復表現し、潜在的な強迫観念が死に繋ぐようになる過程を描いたし、ケネス・アンガーの『人造の水』は神秘主義的幻想のイメージの交錯と弁証法的な過程表現、シドニー・ピーターソンなどの『鉛の靴』、『   』は、題材に隠喩的ないし象徴主義的手法で深層心理の非合理世界を可視化しようとする方向を堤示しており、ウィラード・マスの『身体の地理学』は、きわめて即物的な視覚経験を非日常化しようとし、スタン・ブラッケージの製作品は純粋に個人的な眼識から信じられないほど繊細に意識が世界と交織する予測できない動きを映画で創出した。
 そのほか、雑誌写真を切り取って眩しくコラージュしたアイロニカルな幻像の世界を、既成映画のアトラクティブな断片を再組立し、一種の違化的な狂気をフィルム映像のフレーム単位でコラージュし、その結果イメージは解体され、直接視覚的な錯視が生成される意図、二重露出で独特な感性的イメージを交叉させる『弥撒』、ヨガの瞑想体験を宇宙幻想として表現した『魅惑』、ミクロからマクロまでを含むこの世界の根源的な実存にミステリックに交錯させようとする4時間半の『アート・オブ・ビジョン』、そして極めて日常的な身辺の素材を対象にそれを極めて個人的な作家意識で感性的・生理的に捕捉しようとする日記風の映画『日記』などは、到底みなその様相を解説することはできないが、一言でそれらを代弁するなら、自発性の解放ということができる。

 それらは初めて一切の既成性と権威、常套性と惰性、はなはだしい西欧的世界観それ自体にも抗議する意識まで高揚したものである。もちろんその背景には、ビート・ジェネレーションの台頭とサイキ・ドロップアウトの潮流が、ある一つのものを本質的には西欧の合理主義的な物質文明が人間性を根深く解体して進むことに対する危機感の表現だったのである。それは既存の映画体制との関係では、もちろんハリウッドの象徴される金権の威力と画一主義に反抗する色彩が強いわけだが、何よりも優先されたことは、「新しい人間の生の方法」を希求する意識の変革運動なのである。
 これと並行する映画理論も次元を高めて、既往の「モンタージュ」、「フォトジェニー」の時代とは違い、表現の美学のみならず、映画の原点を映像から考える存在論的研究方法(エドガール・モラン)、コミュニケーションの社会的機能で映画の多面性を総合化しようとする映画学的研究方法(ギルバート・コーエン・シート)、映画と言語の関係をイメージの問題として把握しようとする心理的研究方法(ティーン・ミトゥリー)などに現れた。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ