この系譜は一切の文学的・演劇的要素を配置して抽象化された内面の運動それ自体を純視覚的な運動として還元しようとする傾向だが、これは絶対の自発性を重視するダダイストによって抽象絵画の世界を音楽で転位しようとする発想生じたのだ。彼らは対象である被写体が映画以前のこのような〈意味〉を捜すことも、またその形態と運動がどのような〈意味〉を生成することも自己制約し、全的に幾何学的抽象の視覚的な動きの表現が一定の精神的・感覚的運動を惹起させる極限の様式だった。参考までに暗示的に題名を羅列してみれば、『リズム21』、『対角線交響曲』、『平行線』、『螺旋』などである。
このような前衛行為は究極的には純粋的な映画芸術の本質に対する探究で、映画の商業主義的傾向に対する強烈な抗拒で、また集団的製作ではない個人的創作の溌溂とした肉声だった。
〈絶対映画〉のような傾向で、やはり一切の文学的・説明的要素を排除してこれとは対照的な前衛映画の系譜を成し遂げているものがフランスの〈純粋映画〉で、これはダダイズムの精神とフォトジェニー派の感覚主義から生じた。フォトジェニーという画面の外的・説明的な伝達よりも、画面内側に含有されている生命、精霊、精神的価値の増大を感覚的に抽出するものとして、純粋映画は造形的フォルムよりは〈光〉と〈動き〉が織り成し響きあう詩的イメージの世界を追求し、その純粋化の基礎は〈リズム〉である。
実際〈純粋映画〉は個々のカットの映像も、カットと結合もすべて〈リズム〉の観点から決定され、そのリズムの重視が日常的な意味の構文法を解体する方向に向かうという点で〈純粋映画〉と〈絶対映画〉は共通の基盤に立っている。両者が格別に違っている点は、絶対映画が具象的な映像的〈意味〉を一切排除するのに対して、純粋映画はむしろ具象的な被写体の〈意味〉ある〈像〉を前提とするものである。
純粋映画がどんな意味でイメージの豊かさを中心に絶対映画を凌駕する理由は、観客に初めからすでに非意味化(意味の攪乱を起こす)プロセスを享受する過程で体験するようにしている。これはたいがいの場合、具象的な像の意味性が非日常的な文脈の中で混迷するプロセスとして構想されているので、この時に生成される二次的意味作用(内包性)が映像の表層に持続される一時的意味作用(表示)と互いに摩擦して複合されることこそ、純粋映画のイメージは時に意地悪をもして時には不可思議な感覚の錯乱を惹起し、息をすることである。
その〈意味〉の攪乱を感覚の次元から下意識の次元にひたすら下降させようとする創作傾向がシュルレアレスム映画である。超現実主義映画が指向するところは、もうフォトジェニーともリズムとも違う。それは生と死、愛と欲望など人間存在の根底に横たわっている本能の世界や、そこに浮かび上がる非合理的な心がのたうちまわるのである。このような前衛映画運動は、当時の詩人・画家・音楽人などが、この新しい機械媒体である映画手段で無数に参加し、非商業的領域内でその表現生理の本質発見と表現技術の究極的可能性を探索したが、1930年代に入ってこの運動は急激に減少した。
それは一方ヨーロッパを取り巻く政治危機が、前衛芸術運動全体を抹殺しようとしただけでなく、また一方では映画の発声装置の登場が反企業的個人作業としては経済的な負担が加増され、また初期トーキーの操作方法上の困難が後に続いたためである。これら前衛映画作家たちはいちはやく政治的前衛に変身するか、商業映画世界で延命するのか、またはアメリカに亡命するのかを選択しなければならない境遇に置かれていた。
一方、アメリカのD・W・グリフィスの『国民の創生』などに影響を受けたソ連の映画界は、モンタージュ(組立・編集)の体系研究に執着した。無声映画の純粋視覚的表現の文法で、カットの一つ一つは文字で、そのモンタージュで単語になり文章になれるという実験として提示した。このような素朴な技術論をさらに越えたB・プドフキンは、モンタージュを映画創作上の基本的な芸術と考えた。すなわちカットは〈生原料〉で、このカット自体は生命を持たず、これらが複雑に結合され(モンタージュされ)ようやく生命ある映画芸術が創造されると説破した。映画は〈現実的な時間・空間〉に対し、〈映画的解釈の論理としてのモンタージュ〉によって生成されていた。すなわち現実を個々の断片として分析してこのような断片の中で不必要なものを除去し、新しい構成を通じて現実と次元を別にして、また現実よりさらなる現実感を持つ世界が作られるようになった。そうしてこれらを結合する方法が、観客心理の現実の現象的なさまざまな断片から、次々とその本質に移行する心理的過程、注意の発展、認識の深化と結合させると、モンタージュは映画芸術を創造するための収単になることだと見た。
ここでエイゼンシュタインはこれをさらに発展させ、各カットは無機的概念ではなく生きている細胞として提示されなければならず、この細胞的なカットは自体的な矛盾とともにカット相互間の〈衝突〉または〈相克〉作用を通じ、いわゆる弁証法的過程、すなわちこの〈衝突〉の原理をテーゼとアンチテーゼの相克に る〈ジンテーゼ〉、さらに第三の概念を創出しなければならないという主張である。そしてそれはカットとカットの組立を具体的に次のように分類し、①図形の衝突、②量の衝突、③面の衝突、④空間の衝突、⑤テンポの衝突、⑥材料と角度の衝突、⑦材料とその空間的性質の衝突、⑧過程とその性質の衝突、⑨視覚的総合体とある異質的(例えば聴覚的性質)との衝突であり、このような〈衝突〉の概念でその独特なモンタージュ、すなわちオーバー・トーン・モンタージュあるいは〈4次元の映画〉が主張された。4次元の映画という過去のモンタージュを整理して次のような分類で案出されたのである。
①カットを一定の長さで結合してリズムを創造する長さのモンタージュ、すなわち一次元の映画、②長さに内容的要素を合わせるリズムのモンタージュ、すなわち2次元の映画、③内容的諸要素を一つの支配的トーンで統一するトーンのモンタージュ、すなわち3次元の映画、そして4次元の映画は③のように各カットを一つの支配的トーンに統一するのではなく、さまざまな要素を総合一元化してこれを音楽にある倍音のような常に基本的なものでモンタージュすることを意味した。
彼はこの理論体系を背景にし、彼の代表作『戦艦ポチョムキン』(1926)で成就された。
やがて1927年、トーキー映画の登場で無声映画の成熟した表現方法であるモンタージュは台詞など音の介入で一旦壁にぶつかったが、彼は再び〈画面〉と〈音〉の衝突理論で命脈を引き継ごうとした。しかし当時のスターリンはこのような純粋美学的探求を抑制しようとしたが、その理論は技術主義あるいは形式主義として批判を受けたのである。労働者を教化するのにそのような乱雑なブルジョア的贅沢は捨てなければならないし、下層階級に容易な伝達方法を強要しながら、いよいよ社会主義リアリズムの教化目的優先主義に傾斜した。ここでモンタージュの革命的創造者たちは、自己批判も意味なく挫折し映画界を引退し幕を下ろしたのである。
1930年代はサウンドを獲得したトーキーの発展期で、かつてのサイレント映画が構築した純粋視覚の美学を崩壊させ、ダイアローグへの依存性を高める傾向で文学性と演劇性の性格を迎入する時代だと言える。
ストーリーの多様な展開は視聴覚共有の現実感とともに、映画の黄金期に当たるようになるのこの時期、名作すなわち、『パリの屋根の下』(30)、『巴里祭』(32)、『外人部隊』(34)、『望郷』(36)、『舞踏会の手帖』(37)などが今まで成した視覚的オーケストレイションから〈ドラマ〉の世界に移行させたという点で言えば、30年代は〈カメラ〉の時代と言うより〈ストーリー〉中心の時代で、すなわち映像がドラマの〈枠〉に束縛され、ストーリーが視覚的表現に先行していると言える。このような劇的構成のストーリー中心の興味は大衆の大きな関心であったし、これがハリウッドにつながり、娯楽産業としての映画はいよいよ成熟期を迎える。
アメリカの3大産業、すなわちカーネギーの鋼鉄、フォードの自動車、そしてハリウッドの映画産業という夥しい財力構造を形成した。